ミュージカル「ノートルダムの鐘」を2回見て

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あまおち総統です。
実は、というほどでもないが、オレはミュージカル好き。
特に『レ・ミゼラブル』と『オペラ座の怪人』が好きなのだが、今日は劇団四季の新作『ノートルダムの鐘』を見たので、ちょっとそのことについて書いておこうと思う。
というか、去年の12月にも見に行ったから、今日で2回目であるのだが、2回見た上での感想を書こうと思う。

ので、もしネタバレされたくないという人は、ここで読むのをやめることをお勧めする。
よろしいか?

 

まず、なぜ判事と神父を一緒にしてしまったぁぁぁぁ!
と言っても何のことやらとなる人がいるもかしれないが、あれなのよ、ディズニーのアニメの「ノートルダムの鐘」では敵役のフロロー判事が、四季では神父となってフロロー神父で登場しているんだよね。
ディズニー版の、神の使いでありジプシーも怪物も慈しむ神父という役どころは、四季版には存在しないのだ。

まず四季のミュージカルを見た時に、ここに違和感を覚えた。
いや実は四季ミュージカルを見るまでディズニーの方も見たことがなかったのだが、それにしても四季版のあまりにのフロロー神父の無慈悲さが目に付いたので、おかしいな曲がりなりにも西洋産の物語でここまで神父を敵役にするなんてちょっとおかしすぎるなと、見終わった後もずっとひっかかっていたのだ。
ジプシーとか見た目が悪いような人こそ、愛を与えるのが教会と神父の役目(そう、それこそ『レ・ミゼラブル』の神父のように)じゃないかと、そこに大きな違和感を感じていたのだ。

それでディズニー版を見てみると、なんだ敵役は神父じゃないじゃないかと。
よかった、色狂いした神父はいなかったんだ(笑)
もちろん実際には色に狂った神父なんて過去に何人もいることだろう。
それを否定するつもりはないが、しかし物語としてこの場合の神父とノートルダム教会は、世界の中におけるキリスト教という存在の象徴的な立ち位置(物語そのものが「キリスト教の価値観vsその以外価値観」に立脚している)だけに、そのトップの色狂いで全ての不幸が始まるっていうのは、かなりしんどい設定だと言わざるを得ない。
物語をスッキリと伝えるためには登場人物を少なくするのは有効な手段なのは認めるが、それでもキリスト教の根本を否定しかねないこの改変は、キリスト教の価値を持たない日本人目線ならではなのだろうか。
ただ、この改変によって物語の深い部分が薄くなってしまっていると個人的には感じるので、ここは非常に残念な部分だ。

全体的に言えば、ミュージカルのよい部分を随所に散りばめていて、やっぱりミュージカルって良いなって思える良作であるのは間違いない。
冒頭のキメのシーンの重厚克つ豪華さは感動すら覚える。
またカジモドの俳優さんの気合いの入れようは素晴らしいの一言で、カジモドという特異なキャラクターあってこその物語であるノートルダムの鐘においては、その俳優の善し悪しで全てが決まると言っても過言では無いだけに、彼の熱演はスタンディングオベーションものである
それから音楽も、ディズニーの音楽をそのまま使っていて、非常にレベルが高く、歌と共に頭に残る名曲であり、何度も聞きたくなること請け合いだ。
もし一回でも何らかのミュージカルを見たことあるのであれば、十分にお勧めできるミュージカルである。

まぁでもツッコミどころはいっぱいあるんだけどね(笑)
例えば一番ツッコミたいのは、カジモドがその場にいるのに、完全無視してエスメラルダとフィーバスがいちゃつき始めた場面。
無視されたカジモドの所在なさげにフィードアウトしていく姿はあまりにも哀愁漂いすぎで、お前らそれはひどすぎだと(笑)

それから最後に一言。
やっぱり性根とか優しさとかじゃなくて、最後は顔か!

というワケで、機会があれば是非見て欲しい作品である。

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